下町酒場はしご酒~江戸川のディープな居酒屋巡り
暴漢に襲われた酒場の夜
酒飲みの身としては、縁起のいい酒場がひとつあるだけで、心の持ちようが違う。
暖簾をくぐれば、今夜は悪くないと思える。そういう店に当たることは、歳を重ねるほどありがたい。けれど、たまたま入った一軒で、どうにも運の濁る夜というものがある。
その店の前を通るたび、カウンターの中の主人と目が合った。
互いに軽く会釈をする、それだけの縁である。けれど人は、ときにそのかすかな縁に気を許す。あの晩も、そんなふうにして、つい暖簾を分けてしまった。
カウンターには男が三人いた。
ひとりは伏して眠り、もうひとりは酔いの底にいながら、まだ他人の綻びを探しているような顔をしていた。場の気配があまりよくない。そう思って、奥のテーブルに身を置き、酎ハイをひとつ頼んだ。ひと口目を含んだ、その折である。
眠っていた男が、ふと顔を上げた。
何かを口の中で言ったかと思うと、天井を仰ぎ、そのまま高い椅子から崩れ落ちた。後頭部が床を打つ音がして、男は横たわったまま動かない。近寄って見れば、初老の酔漢の顔は思いのほかやわらかく、ただ、そのやわらかさがかえって命の薄さを思わせた。
救急車を呼んだほうがいいのではないか。
そう主人に言うと、これはいつものことだと言う。表へ出しておけばいいと、いかにもこの町らしい乱暴な返事が返ってきた。酔漢は商店街の旦那衆のひとりで、意識をなくすまで飲むのが常だという。菓子職人の常連とふたりでその男を抱え、家まで送り届けた。出てきた息子は、手慣れたものだった。小柄な父親を受け取る手つきに、もう驚きも嘆きも見えない。
連れ合いに先立たれてからです。
菓子職人がそう漏らした。上品できれいな人だったらしい。人はひとり失うだけで、毎夜こうして自分を減らしてゆくのかと思うと、酒というものも慰めなのか罰なのかわからなくなる。
どうも今夜は雲行きがよくない。
そう思って、預けてあった鞄を受け取り、そのまま引きあげるつもりで店へ戻った。ところが、戻ってみれば主人は具合が悪いとかで姿を消し、代わって女がふたり入っていた。つい先ほどまでの荒れた空気が嘘のように、店だけが妙に明るい。
事情が変われば、酒も少しはましになるかと思った。
だが、頼んだ酒も肴もぱっとしない。接客もどこかちぐはぐで、飲むほどに店の粗ばかりが目につく。いいところがあるとすれば、ただ入りやすい顔をしていることだけ。酒場にも、見かけだけがやさしい場所がある。
気分は晴れず、眠気ばかりが重くなった。
酔いに包まれるというより、鈍い闇に引き込まれるような眠さである。ひとつ身震いをして、これはいけないと腰を上げた。店を出ると、横断歩道の向こうに客待ちのタクシーが見えた。肩の鞄が、妙に重い。もう二度とこの店には入るまい。そんなことを思いながら歩いていた。
あと少しでタクシーというところで、背後から声がした。
乱暴な呼びかけだった。振り向く間もなく、左腕を脇から絡め取られ、もと来たほうへ引き戻される。鞄だけは離すまいと抱えたが、相手の目当てはそれでもないらしい。ただ鬱屈だけが形を持って襲いかかってきたような、始末の悪い荒れ方であった。
酔いと眠気のなかでも、妙に冷えた一点だけは残っていた。
危ないとわかっているのに、危機として身に届かない。これが酔っぱらいの情けないところで、体も心も半拍ずつ遅れている。相手は早口で意味の通らぬことを吐き散らし、執拗に腕を引く。こちらは足がもつれ、体ごと相手にもたれた。
その拍子に、絡められていた腕がふっと外れた。
崩れた姿勢を立て直そうとして上がった肘が、たまたま相手の顎に当たった。男はその場で固まり、細かく瞬きをした。こちらも勝ったつもりなどない。ただ、偶然がひとつ転がっただけである。
だが、身体はそれで済まなかった。
振り子のようになった鞄に引かれ、自分のほうが横ざまに飛んでいく。よろけた勢いのままタクシーの脇へ回り込むと、待っていたように扉が開いた。そこへ身を落とすように乗り込み、ようやくひとつの夜が終わった。
酒場の縁起というものは、暖簾の色ではわからない。
人の気配が濁る夜もあれば、運が妙な綾を結ぶ晩もある。ただ、振り返って残るのは、派手な災難の記憶より、あの初老の男のやわらかな寝顔のほうである。侘しさとは、大ごとのあとにひっそり残るものを言うのかもしれない。
翌朝、気がつけば、お気に入りのジャケットからポケットが消えていた。

◆この記事を書いたひと
酒場ライター:居酒屋伝道師・池波和彦
東京生まれ東京育ち。酒場巡りを趣味とし、北は北海道の離島から南は沖縄の離島まで新規8000軒以上の店を巡りブログ「日本の酒場をゆく」を執筆。毎夜全国の居酒屋やバーにて神出鬼没の酒戦の日々を過ごす痛飲派。
ブログ「日本の酒場をゆく」↓
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